ぺぺ長谷川へ

ペペ長谷川と最初に会ったのは、大学1年で早稲田鶴巻町にあるフリースペースヴィジョンというところだった。当時、ぺぺは、TZ2(ティーゼット・ツー)と呼ばれており、そのことにも驚かされた。「2(ツー)」だからツバイと省略されていた。同場所には、国家秘密法に反対するピリオドというグループがあって、その後、わたしたちは、早大のノンセクトのグループ(以下「NR」という)で、それこそ泣き笑いをともにした。出会った年、1987年は天皇訪沖阻止という課題があり、ともに闘うこととなる。上記、フリースペースから「秋の嵐」が生まれた。

ペペ長谷川という名は、NRの合宿のときみたビデオに出演していた俳優の芸名からとられたのと、先輩の顔が浮かんできたとのことだったが、この「ペペ長谷川」が、すっかり定着したのだった。学費闘争等もかかせない思い出であるが、最近、ぺぺはNR時代を振り返り、Tコボ氏に「楽しませてもらった」と言っていた。

NRには、様々な戦線があったが、ぺぺは、どこにでも登場した。というより、どこからも呼ばれたという方が、正確である。何か一つの戦線におさまらなかった、一つの運動課題からすると、圧倒的に過剰な存在感が、それを許さなかった。筆者との関係で言えば、普通学級就学運動で名をはせた金井康治君の介助にペペを誘ったこと、これはペペの人生に大きな影響を与えたと思う。分離すること、分けること、隔離することに対する怒り、その後の金井君の「生きる」ということへの絶望にも涙した。それでも、笑いを決して忘れなかった。この経験がペペの「共に生きる」というスタイルに強い確信を与えたのだと思う。筆者は、ぺぺの日には、金井邸で過ごした。この体験が、金井君、ぺぺとの精神的な深い絆となった。

ぺぺの運動スタイル「交流」は、学生時代から確立されていたが、「交流」という運動のジャンルは、ペペが作ったと言っても過言ではない。その後、ペペを称して「コウリャー」と言われることもあった。「交流」というのは、日常、誰しもやっているものだが、運動の場合は、何らかの課題を背負ってのものとなる。ペペの場合は、世間に根をおろし、そこが、ぺぺの運動の現場であった。

「世間」=「日常」は、欲望、欲求が渦巻き、孤立と対立-協調が交互に訪れる場所である。人間は、「肉体」という牢獄に閉じ込められている。ぺぺは、その渦中にあり、その場所が運動の現場であった。ある種の「正義」を上から振りかざす人ではなかった。運動のアクティビストのなかには、「運動は生活」等と言う者もいるが、本当のところ、家庭と職場、運動と生活というのは、分離しており、ここに自覚的であることが、同時に運動というもののもつ一つの困難に自覚的になれるのだ。ところがぺぺの「現場」は、「世間」=「日常」であったから、運動と生活との分離が最小の人であった。そういうペペの運動スタイルは、家族、しがらみ、権力関係といった抑圧的な関係を解体し、「運動=生活」を開く起源となって、新しい「運動=生活」の歴史を開くものである。ぺぺは、「ラスタ庵」、「ますふく」といった今でいう「シェア・ハウス」のような場所に住んでおり、「自宅」である実家に寄りつかなかった。「ますふく」では、当組合の組合員と暮らしていたこともある。「ラスタ庵」、「ますふく」といった場所に居ない時は、誰かの家で「合宿」をしていた。私の家で「合宿」を行うこともしばしばあった。だから、ぺぺと高円寺を歩いているだけで、自由な風貌の人、様々な人たち、あちこちから声をかけられ、癌を患ってからは、「ぺぺさん、元気ですか?」とあいさつされ、「げんきなわけねえだろ」と怒気を孕ませ応じていたぺぺの姿は、筆者をおおいに笑わせてくれた。ぺぺは、運動の指導部、組合で言えば執行委員といったものになることはなかった。なぜなら人と人との渦中いて、耳をすませ、交流し、「生きるスタイル」を身をもって実践したから、他者への影響力も絶大無比であった。

癌を患ってからは、誰も居ない実家に住んでいたことが多かった。「交流」に疲れをおぼえるとも言っていた。―死後の世界、精神世界についての本を読んでいるというメールがきたので、世界レベルの哲学者井筒俊彦を紹介した。ぺぺの思想のなかに存在論的なものが芽生えていたのだろう。地球温暖化という環境破壊に多大な関心を寄せていた。プーチンによるウクライナ侵略戦争にどう反撃するか、心を砕いていた。昨今、サンデル等によって、際立たされた「能力主義」と無縁の人であった。能力主義は、協同を阻害し、人を離散させる、その克服は組合で筆者が強調している課題である。3年前ぐらいから、ぺぺは、ラディカリズム(根源)をかつてなく標榜していた。「リベラルは、ラディカルから生まれ、育まれる」と言っていた。ハゼ釣りに行った。頻繁に「合宿」の申し出を受けたが、応じることができず、残念であった。ぺぺは、当組合の組合員であった。当組合の活動として新宿アルタ前の「反セックスワーク」の集会へのカウンターに参加してくれた。年末の組合の忘年会に参加し、顔芸、話術の片鱗に触れた。ぺぺとの最後の「交流」は、組合員でもあるQTさんの近況の話だった。もう、逢えないのかと思うと、仕事中に泣けてきた。優れた「顔芸」の人であった。この時代の最大、唯一無比のアクティビストであった。

共に闘おう!共に生きよう!

フリーター全般労働組合/キャバクラユニオン 執行委員 ういすちわお(三浦)

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