ぺぺ長谷川さん

ペペさんと出会ったのは、1989年。
当時入会しようとした早稲田大学雄弁会の先輩たちから、俺は浴びるように質問されていました。例えば「雄弁会に入会したい」に「何しに来た?」と質問します。「政治家になりたいので」とか「日本を変えたいと思って」などと答えると「なんで政治家になりたいんだよ?」「なんで君が政治家になるんだよ?」「日本をどう変えるっていうんだよ!?」「君じゃなくて良いじゃん」など、自ら発した発言の前提となる思考について「なぜ何と」を際限なく聞かれます。
思考の探求無間地獄が夜や朝まで続き、大隈小講堂の入口が穴倉のようになっていて雨風をしのことができて。そこで飲酒しながらサンドバックのように詰められていたところで、ノンセクトの活動家たちや芝居やバンドをやっている人や色々な人々が一緒に飲んだり論争したり殴りあったりしている場面。そこにツヴァイと呼ばれるゴミまみれの男性がいたんですね。みんなで小銭を出し合った買ったスーパードライの2リットル缶を片手で持ちながらポテチとかを身体中に付着させて、西城秀樹の「傷だらけのローラ」をノリノリで歌う怪人が、ツヴァイこと塚原さんその人でした。

塚原さんはスーパードライ2リットル缶の蓋をあけ○○○をねじ込むとジョボジョボと△△を注ぎ始め、俺は心底度肝を抜かれたことを覚えています。なぜ裏の□□でしないのですか?と俺が愚問を発したところ、塚原さんが「君と先輩との間でなされている討論が重要で討論を途中で切るのは失礼だからだ」と答えたのです。心の底から感心したのを昨日のように覚えています。その後酔った誰かが、ペペ△△ブレンドスーパードライを飲んでしまい、大騒ぎとなったのもよい思い出です。

ノンセクトの運動でも雄弁会の活動でも、運動方針や運動の進め方や人間関係をめぐって何度も困難にぶつかる度、前提質問の問いかけに立ち返ることになりましたが、ペペさんやしつこく議論に向き合ってくれた人たちによって、かろうじて逃げようとする気持ちを断ち切って取り組みを継続できてきたのは、紛れもない真実です。
その後社会人になり、自身は資本主義がもたらす搾取と分断に抗する社会の在り方に向けて生きていくことを基本姿勢に据えながら、何とかフラフラしながら生き続けつことができています。その時々でペペさんには助けられてきました。

俺が1993年から関わった労働者協同組合の取組みでどんづまった時(東北のとある事業の責任者として着任していた時、長時間労働で当時付き合っていた女性と破綻し、組織づくりでも決定的な失敗をして辞表を書いていた時、「QTがピンチらしい」と聞きつけてペペさんとウイスこと三浦仁士さんと重度障害の金井康二くんと同期の大森孝参君が仙台まで来てくれました。洗う余裕もなくうず高くYシャツと靴下が積み上げられた平家の汚ねえ貸家に、本当に駆けつけてくれたのでした。ただしペペさんたちは俺はほったらかしにして仙台の海に大好きな釣りに行き、毎日天麩羅を揚げて食し、のびのびとリラックスしていました。でもそこには、俺が10年以上音信不通にしていた父と母も心配して来ていて、世にも不思議な交流空間が形成されていたのでした。

結局今思い返せば、「なぜQTは今そのことをやっているのか?」という前提質問に帰ってきていたような気がします。最後、学生運動の頃から意見が違う俺の父母に、ペペさんとウイスさんと金井君が「お父さんお母さん、QTくんは大丈夫ですよ〜」と根拠もなく断言、度肝を抜かれたのを、昨日のことのように思い出します。奇しくも癌を患っている俺の母親は「この人たちこそ大丈夫なのかしら、と心配だったのに、あんたのこと心配してるのが可笑しくて」とその日のことを思い出し、今も愉快そうに笑います。本当にその時のことは感謝していて、助けられたのでした。

先日「Uが亡くなった」と知人たちから連絡があった際、入院している俺のことを、癌を患っていたぺぺさんが「QTに何ができるか考えている」と言ってくれていた、と聞きました。
これを書いている今も泣けて、涙が止まりません。

生きて闘おう!

フリーター全般労働組合 組合員 QT

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